大三国志 無課金者の逆襲 ー waveの作戦室

無課金の無課金により無課金のためのブログ

<三国志雑談> 馬超軍団強さの秘密

■馬超軍団

 曹操は一生の中、大敗を喫した戦闘はいくつある。その中結構やばかったのは馬超との対戦でした。

 

 「三国志演義」の中では、馬超は、曹操に殺された父馬騰の仇を取るため、兵を起こして潼関で曹操と戦った。馬超西涼兵の勇猛さの前に、曹操軍は大敗。曹操本人は危うく命をおとしたところで、偽装のため自分のひげを落としてまで馬超の追手から逃げた。

 

 さて、なぜ馬超兵はあんなに強い戦闘力があったかというと、一説では、実は馬超軍はローマ軍でした。

 

 あまりにも奇想天外な話で信じがたいでしょうが、話を聞いていくうちに納得するかもしれません。(笑)

 

■経緯

 紀元前60年、ローマはカイサル、ポンペイウスとクラッススの三頭政治体制が樹立された。クラッススはパルティア征服の野望を持っているから、4万人のローマ軍を率いてパルティア領に進軍。砂漠地帯での戦いに慣れていないローマ軍は敗北、クラッスス本人も死んだ。これは歴史上有名な話です。

 

 三頭政治が二頭政治になって、その後カイサルが「賽は投げられた」という有名な言葉でルビゴン川を渡り、ポンペイウス倒し、独裁者となった。

 

 一説によると、当時一部のローマ軍は、退路が絶たされ、ロームへ戻れなくなったから、東へ逃れた。その後、その祖国を失った部隊は匈奴の傭兵となって、さらに東へ移動。

 

 さらにその後、匈奴が漢帝国との戦いに負けたから、この部隊は漢帝国の保護下に置かれました。「犁軒」(現在中国の甘粛省永昌県)という地方に定住。

 

f:id:Wavex:20201124011027p:plain

 

 馬超軍団はそのローマ軍の戦法を取り入れたため、当時中原地区の曹操にとって全く新しい戦法で、手も足も出なかった。

 

 記録によると、馬超軍は鼻が高く目が深い人が多い。馬超は同じく西涼軍の董卓と違って、董卓は騎兵中心の部隊、馬超は歩兵中心の技術型軍隊。

 

 当時中原の部隊は弓や弩を使うが、馬超軍は投げ槍を使っていた。矢に刺されても、戦い意志があればまだ戦えるが、投げ槍に命中されたら即時戦闘から脱落。ただし投げ槍は体力が必要で、当時は身体条件の良い西涼あたりの人でしか使えないようです。

 

 また、「魚鱗陣」をよく使う。こんなイメージかな。

 

 

■曹操の戦術

 ローマ軍はヨーロッパで無敵なのは、素晴らしい道路網と地中海の運輸力のおかけです。ローマ型の戦いは補給がとても大事、投げ槍は敵が拾って投げ返さないように、一回投げたら穂先が曲がる設計となっている。西涼軍は勝つ時や秩序ある後退時は問題ないですが、敗退の時は重い盾や槍などすべて捨てなければならない。

 

 これで曹操の戦術は、消耗戦に持っていくこと。だから曹操はどうしても城を建てなくてはならない、水で凍らせて城が出来た時は大きく笑った、これで勝ったぞ。

 

 ヨーロッパのような補給システムを持っていない馬超は、ついに曹操に敵わなく敗退しました。それでも一州の力で中原に対抗できたのは、馬超軍のすばらしさを証明しましたね。

 

 大三国志で馬超一撃3000、4000も敵を倒すのも納得できる設定ですね。

 

■追記

 この話は全くのでたらめではなさそうで、西域シルクロードに歴史の中に埋もれた町が多い。「犁軒」はローマ式町の特徴ありという考古的な発見もあり、これからさらに何か見つかってくれたら面白いですね。

 

 ただし、ちょっと調べてみれば分かるように、クラッススのパルティア遠征は紀元前53年、馬超と曹操の潼関の戦いは紀元211年、200年余りの隔たりがあります。馬超軍にローマ軍の戦術を取入れた可能性はあるが、馬超軍はローマ軍であると面白く書いたらちょっと飛ばしすぎですね。(笑)

 

 まあ、源義経がモンゴルへ行った伝説と同じ、ゲームしながら歴史に思いを馳せるのも良いでしょう。