大三国志 無課金者の逆襲 ー waveの作戦室

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<三国志雑談> 曹操はなぜ楊修を殺したか

■人物紹介

楊修(175年 - 219年)は、字は徳祖。司隷弘農郡華陰県の人。曾祖父は楊震、祖父は楊賜、父は楊彪。

 

 三国志演義では、劉備軍との漢中攻防戦において、鶏湯(鶏のスープ)を食べていた曹操が「鶏肋」とつぶやく。楊修はこれを伝え聞き、曹操が撤退の意思決定をしたと解釈し、その準備を進めることになる。しかし曹操は、それを勝手な行動であるとして憤り、楊修を処刑してしまった。その後、やはり楊修の予言通りで曹操軍は敗退した。

 

 三国志演義によると、これは表向きの理由で、裏の理由は、実は、楊修は曹操の考えを悟る秀才だから、曹操はその才能に嫉妬したから。三国志演義に二つの逸話が残されています。

 

 逸話1、曹操は新築の役所を視察したところ、彼は門に「活」と書いて、その場を去ります。楊修はそれを見るとすぐに門の改修を命じた。なぜなら、門の中に活という文字が入ると「闊」という字になる。殿は門が大きい過ぎて嫌なのであろう、と曹操の本心を見抜いた。

 

 逸話2、ある時曹操は楊修等を連れて、曹娥の碑を見に行きます。碑文は暗号で書かれています。その意味は分かるかと曹操が家臣たちに聞くと、楊修は分かったと即答。曹操はちょっと考えさせてと、2キロ歩いたところでようやく曹操もその意味が分かった。

 

 つまり、「出る杭は打たれる」、楊修は自分の才能のせいで命を落とした。

 

 だが、真実は常に歴史の闇に隠されている。

 

 裏の裏の理由を考えてみると、そう簡単ではない。

 それは曹操の跡継ぎ問題に関わっている。

 

 同時代の歴史を見ると、袁紹、劉表は跡継ぎ争いで一族滅びた。当事者の曹操はその教訓を見逃すはずがない、だから跡継ぎ問題は当然最重要問題として考えていたに違いない。

 

 候補者は二人、曹丕と曹植。長男曹丕は司馬懿の補佐を得ていたが、曹植の補佐役は楊修。

 

 楊修が殺された3か月後曹操も世を去った。つまり曹操は自分の死期を悟って、跡継ぎ問題に決着をつけたとみて良いでしょう。

 

 当時、まだ蜀と呉と戦っている乱世、曹操は自分の代に天下統一できると信じていた。もし天下統一果たせたなら、二代目は司馬懿のような謀略家はいらない。文才ある曹植と楊修に任せて、平和の世の中を築いてもらう。

 

 だが、漢中討伐戦で曹操は自分の死期が近い、天下統一の夢は二代目に託すしかないと悟った。その場合、諸葛亮、陸遜に対抗できるのは司馬懿しかいない、だから曹丕司馬懿コンビに後を継いでもらうしかない。ここで楊修の運命が決まった。

 

 では、楊修を活かすことはできないか、何も殺すまでないかなと後世の人は思うが、それは危険。

 

 楊一族は名門、まさに「四世三公」。父楊彪は太尉を務めた。

 太尉とは、古代中国における官職名で、今でいうと、防衛大臣、国防長官、国防大臣などに相当する。軍とのつながりがあることは間違いない。

 

 楊修が生きていれば、常に心配の種が残る。例え本人がその気がなくても、部下たち何か行動起こすか予測できないから、やはりここで退場してもらうしかない。また、楊一族勢力に警告の意味も込めていると考えられる:決着はついた、これ以上不安な動きがあれば容赦しないぞ、と。

 

 今風で言うと、社長競争者が敗れたら、本人は外国支社社長などの名誉職に、腹心たちは工場などばらばらに左遷され、数年後みんな早期退職に追い込むなど。歴史は繰り返しますね。

 

 さて、その後曹植の運命はいかに?曹丕は殺すつもりで、七歩を歩いたうちに詩を作れと命じた。それは曹植の有名な「七歩詩」の由来。結局、曹植は殺されず平和な余生を送った。

 

 もしかすると、曹操の親心で、曹植の郎党が殺されたら、曹植は曹丕の脅威にならず、曹丕は曹植の命まで奪わないであろうとみていたかもれしません。

 

 いかがでしょうか?曹操曹丕曹植とも中国史上有名な文学家で、後世の詩作に大きな影響を及ぼしていた。機会があれば紹介したいと思います。

 

さて、曹操について書いたから、次回のガチャで曹操来るかな。